小樽運河論争の中で

小樽運河論争の中で  (2002年執筆・2023年加筆)

鈴 木 吾 郎

 昭和56年4月私は小樽潮陵高校へ美術教師として赴任してきた。当時小樽では運河埋め立ての賛否で大論争を展開していた。

 翌年の8月当時の市展委員長のTさんから電話があり、○○日に市役所で都市景観委員会があるので出てもらえないか?とのことだった。都市景観委員会は五者会談の後、運河一部埋め立が決定的となり、その後の景観形成の諮問委員会だった。すなわち、散策路のアルミ製高覧に「イルカを付けるかカモメにするか?」という課題と散策路の路面は「人造石(テラゾー)による川をイメージしたものにする云々」というようなものだった。T委員長が出席を避けた理由が分かる気がした。ちなみに私のように小樽の状況に疎い転入者が選ばれた理由は他に引き受け手がなかったからに違いない。

 さて、私は話す気にもなれず無言の参加だった。最後になって版画家のK委員が「鈴木さん若い人が何か言いなさいや!」ということで私に廻ってきた。それまで感じていた事がらをいくつか話した。まず「私は埋め立てに反対して居たんですよ…!」というと、その場は一気に凍りつき場違いの発言になってしまった。私はこれだけ騒がれた運河ですから、フェンスをアルミなんかにせずブロンズのオリジナル製にするとか、散策路は路幅が狭いので1m40cmの高覧では檻に入れられたような感じになるので出来るだけ低くして欲しい。ついては「路面の人造石は品格がないので、現在も小樽駅下手宮線の側にあるような御影石(ピンコロ)の銀杏張りを考えてほしい……」等々、要はすべて「本物志向でやって欲しい……」との意見を思い付くままに出した。

 ついでに、その時の反応を紹介すると「そんなお金の掛ることは無理だわ……」というのがみなさんの意見で、行政のK土木部次長さんは明らかに不快感を示していた。彼は委員会終了後各委員一人一人にご挨拶をしていたが、私が無視されたのは私の被害意識だけではなかったと思う。帰宅後も後味の悪い思いが残った。

 その後、そんなことも忘れ自分の仕事に専念していたが、11月に入って突然市の公用車が授業中の私を迎えに来て「急用なので市にご足労願いたい」とのことだ。土木部長室へいくとH部長がにこやかに迎え入れてくれ「実は8月の審議記録が道を経て建設省で閲覧され、建設省の○○技監が『この人の意見をもう少し具体的に聞いてみてくれ。補助金は通常の3倍位出すので……』と言ってきた」というのだ。ついてはもっと具体的なプランを早急に出して欲しいとのことだった。驚いたが取り敢えず考えられる限りのプランを数日で提出した。内容は現在の景観そのものである。

 その後、また音沙汰なくなり忘れたころ1月半ばに再び市から呼び出しを受け参上したところ建設省から「シンボルロードに指定するので、お金のことは心配せずに良い仕事をして欲しい」とのことだった。しかし、その時はすでに1月半ばを過ぎており、高覧は富山県の井波彫り(透かし彫り)の里へデザインを送って型を彫ってもらうつもりだったが、時間がないとの理由で拒絶されてしまった。仕事は年度内完工が決まり数多くの鋳物には時間がかかり原型制作に取れる時間は一面一週間しかなかった。中央橋と散策路の2面が10日足らずで作らなければならなかったのだ。やむなく潮陵高校に勤務しながら校長の許可を得て空き時間に準備室で制作を始めた。市のシンボルツリー「白樺」をモチーフにした。現在の警察署下ガード脇に自生していた白樺をスケッチしてそれをモチーフにデザインした。一枚で両面から見られる透かし彫りを作ったのである。石膏で原型を作ったがその後も難題は次々起こった。私は『運河が残るのであれば少しでも良いものにして残したい……』の一念での取り組みだったが、運河潰しに協力していると見られ一部から非難も受けた。「ひどい運河ができれば、それ見たことか!と行政を攻撃できるではないか!」というわけである。当時「評判が悪かったら俺は小樽には居られないな……」と転出を覚悟しての仕事だった。

 しかし何と言っても大変だったのは、旭川の業者がこんな複雑なものは鋳型に取れないと言い出したことだ。小樽土建の一室で延々と論議が始まった。「先生は芸術家かも知れないが、これは芸術作品ではないのであって、土木用品なんだ…」とたしなめる様に言う「今日の日本は技術立国である。したがってこの程度の仕事ができない訳がない」との言い合いが続いたが、最後に「こんな仕事は引き受けられない。降ろさしてもらう……」という。私は慌て余程引き下がろうかと思ったが休憩をもらい、当時のI小樽土建部長に業者を替えることができるのか尋ねてみた。すると「入札が終わっているのでこちらから替えることはできないが、業者が降りるというのであればそれは可能である」という。ただちに長い付き合いの高岡の鋳物業者に電話で事情を説明し万が一の時引き受けてくれるか?相談した。原型の写真も大きさも何も資料の無い電話だけの依頼に、「分かりました。その時はなんとでも致しましょう……」との返事に救われた。この時の事を思い出すと今でも込み上げるモノがある。会談再開に望み「降りると言うのであれば、それで結構です」と答えた。すると突然相手は起立し「失礼しました。やらせて頂きます」と掌を返したようにいう。後で分かったのだが業者に取っては、コストを下げるためのハッタリだった様だ。さらに道庁の仕事を一度降りたらその後が怖い……ということも有ったかも知れない。

 そんなことで、この一件は落着したように思っていたがそうではなかった。問題は次々発生した。石膏の原型では沢山の鋳型を起こせないので一度アルミの種型に直すが、今度は熔けた金属は冷える時収縮するので、白樺の縦枝の部分が引き手摺の直線が湾曲してしまったのだ。そのことを指摘すると曲がっていないと頑張りだした。スチールの物差しをもってあてがうとはっきり中央に7ミリ程のすき間ができている。手摺の部分を金属鉋で真っ直ぐに削って欲しいと言うと、今度は「作業日程は一日を争う急務で、今日が明日でそんな仕事の引き受けてくれる業者はいない」と突っぱねられた。たまたまその時は清水建設のS監督官(運河工事の総責任者)が同席していた。彼は私たちの会話を聞きながら地元旭川の鉄工所にその場で電話し、若い技師を呼び寄せ「明日までに金属カンナでゆがみを直せないか」と交渉してくれた。技師は「わかりました。明朝お届けします」と請け負ってくれた。このときも手を合わせる思いだった。その後も着色のことなどでゴタゴタは続くのだがこの部分はここまでとしたい。

 次に路面のピンコロ(サイコロ型の御影石)60万個がネックになって来た。予算はついたのだが生産が間に合わないという。結局韓国へ緊急発注しようやく数を確保した。ところが今度は銀杏型に敷きつめる技能者がいない。これは仙台と熊本から約14名を捜し出した。年度内竣工のため、テントを張り24時間3交替勤務で突貫工事が始まった。言うまでも無く小樽の冬は厳しい寒さだが、テントを張りオイルヒーターをうならせ黙々作業が進む。ある時、様子を見に現場にチョット足を踏み入れるとすかさず「入いるな!」の怒声が飛んできた。怒鳴られても職人の仕事への緊張感は快かった記憶が残っている。

 このあたりから、運河周辺の整備事業は急ピッチに進んでいく。『本物志向』が定着しガス灯も初めは電灯の予定だったが、しまいには本物のガス灯になり、散策路の壁面は張碓の黒い岩石を張りつめ、全体が重厚感のある落ちついた空間ができ上がって行った。散策路の高覧も低く抑えられた。このようにして今日の運河が誕生したわけだが幸い観光客が増え小樽の活性化の一翼を担うになった。私も小樽を出ることもなく小樽に骨を埋めることができそうである。

 それまでの流を振り返ると「小樽運河を守る会」の峯山冨美さんが粘り強く頑張って来たことが今日のベースにあることは言うまでもない。後になって峯山さんとも懇意になりNさんと3人で洞爺へお花見や紅葉狩りに何度も行く様になった。それぞれ最初の立場は違ったが小樽を愛し良くしたい思いは同じで、共感出来る人間関係が出来たのである。

注:○○は忘れた所である。小樽市の資料を見ると分かると思う。これは2002年に自分の思い出として書いたモノに少し手を加えて書き上げたモノである。